埼玉県川越市の「中院」(天台宗別格本山)に、「河越茶」「狭山茶」の起源を記した石碑があった。
それによると、
そもそもお茶は、平安時代に最澄が中国の天台山国清寺から伝来し京都に栽培したのが始まりで、これを慈覚大師円仁和尚が830年、川越の仙波に星野山無量壽寺仏院建立に際し、比叡山より茶の実を携え、境内に薬用として栽培したのが、「河越茶」「狭山茶」の起源であるといった内容である(写真参照)。
日本における茶の起源についての記録としては諸説あるが、
西暦729年 奈良初期、天平の時代に聖武天皇がお茶を飲まれたことが 奥義抄(おくぎしょう)という書物に書かれているが、この奥義抄は、400年ほど後の、西暦1100年台に書かれた記録なので、信憑性に微妙なところがあるらしい。
また、西暦805年頃に中国から帰朝した最澄、同じく西暦806年頃空海が、お茶を飲んでいたと、伝えられているが、密教の言い伝えであり、記録がはっきりしないとのことである。
確実視される記録としては、平安初期の 『日本後記』 の記述で、弘仁6年(西暦815年)に、僧「永忠」(えいちょう)が近江の梵釈寺で嵯峨天皇にお茶を奉ったとの記載がある。
ただ、この永忠は、最澄と一緒に帰朝した留学僧であるので(つまり805年!)、永忠とともに最澄が日本にお茶を持ち込んだ可能性は、充分にあるといえるだろう。
また、英国人がインドのダージリンで中国種栽培を始めたが後になり自生種であるアッサム種が見つかった、というように、日本にも元々自生の在来種があったという説もあるが、上記のように奈良・平安ごろに帰朝した僧侶が持ち帰ったものが野生化した(帰化植物)という説も有力とされる。
これらを総合すると、必ずしも中院の石碑にあるように最澄が日本茶の元祖と断言し切れない部分もあるが、少なくとも、留学僧が日本に持ち込んだ茶が、寺院の建立に際し、寺院と共にこのように全国に広まっていったという流れ自体は、確実に存在したと思われる。
さて、この河越(川越)茶は、やがて、主な生産地を、現在の狭山市、入間市地区(狭山丘陵)としていった。
狭山丘陵は現在の狭山市と入間市にまたがっているが、特に入間市で栽培が盛んである。
鎌倉時代に武蔵国の狭山丘陵一帯で栽培されていたらしく、また、南北朝時代の書物『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』に、「天下に指して言う所」の茶産地の一つとして「武蔵河越(むさしのかわごえ)」が登場するそうで、この時期には河越~狭山地域は既に有名な産地であったらしい。
江戸時代には、狭山丘陵一帯の村々が川越藩領であったことからも、「河越茶」と呼ばれたとのこと。
この近隣で昔から城があったのは河越(川越)くらいなので、全国的には狭山丘陵も川越地区といった認識だったのであろう。
ただ、そもそも伝来したのが、現在の区分でも川越市だったのである。
この「河越茶」が「狭山茶」として大々的に売り出したのは近代以降のことである。
石碑にある「仙波」は現在の川越市内の地名で、星野山(せいやさん)無量壽寺は、伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山としたそうで、その中心にあったのがこの「中院」である。
星野山無量壽寺には北院、中院、南院があり、北側にあった「北院」が今日、「川越大師」として著名な「喜多院」である。
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