(新星出版社は、紅茶でもティーハウス・タカノの高野健次さんの本も出しており、より専門的な柴田書店に次いで優れた本が多いと思う。)
・コーヒーは「激動」
堀口氏の立場によるところもあるが(後述)、
「過去10年間、私が明治維新に匹敵するようなコーヒー激動時の中にいた」(2010年談)とのことである。
それは何かというと、
- 産地から流通過程でのトレサビリティの進歩
- カッピングによる評価基準の確立
・アメリカにおける判定の発展
雰囲気に流されやすい日本人と違い、論理的思考に強いアメリカ人が絡むと分類が非常に進歩するのが世の常であるが、コーヒーもSCAA(アメリカスペシャルティコーヒー協会)の設立(1982年)が、その後のコーヒーの世界に絶大な影響を与えている。
SCAAでは、まず生豆の状態で、「欠点豆の少なさ」「異臭の有無」「生豆の色」「水分値」「水色」といったもので欠点を調査する。
そこで一定基準を満たしたもののみが、焙煎の上カッピング(いわゆるテイスティング)される。
カッピングでは「フレグランス/アロマ(粉のみの香り/湯を注いだ香り)」「フレーバー(独特の香味)」「アフターテイスト(後味)」「アシデティ(酸味)」「ボディ(コク)」「バランス(調和)」「ユニフォーミティ(5つのカップの均一性)」「クリーンカップ(透明性)」「スウィートネス(甘み)」「ディフェクト(欠点)」「オーバラル(総合)」が判断される。
この段階では、より味・香りの個性を判断する方向に力点がおかれている。
※ここでいう「クリーンカップ(透明性)」は水色(すいしょく)のことではなく、「最初にコーヒーを口に入れたときから最後のアフターテイストまで、他の味にじゃまするマイナスの印象がないこと」という意味だそうだ。
この判断基準は、1986年にできたものを基に、2004年により客観化・精密化をしたものだそうだ。
そしてカッピングで100点中80点以上を獲得したものが「スペシャルティ・コーヒー」と認定される。
日本茶と照らし合わせると、おそらく「外観」や「水色」は第一段階の選別のところに含まれ、カッピングのところに「滋味」「香気」が非常に細かくなったものが該当しているように見える。
・味の判断には知識が不可欠
本書に曰く
ただコーヒーを飲んでいるだけでは香味を覚えることはできない。そのコーヒーがどこの国のどの生産地のどのような品種で、どんな方法で精製されたかなどは最低限押さえておかなければならない。とのこと(p76-77)。
道案内もなくコーヒーを飲むのは、道案内なくジャングルを歩くのと同じようなものだ。
(中略)
コーヒー愛好家は「おいしい」か「まずい」かという曖昧な主観でしかコーヒーを判断しない。いや、しないというよりできない。正しい方法を何も教わっていないからである。
コーヒーは飲むだけではいつまでも進歩しない。信頼できる店で、高品質のコーヒーを購入することから始めよう
素人が予備知識も無しに上手いだの不味いだの言うだけでは、判断の根拠に乏しいということである。
そして、「玄人」であっても、日本の従前の喫茶店は、産地や品種、精製方法の勉強、判断基準が甘いものが多く、そしてSCAAのような精密な基準で判断されたものとは次元が違っていた、というのが暗にほのめかされている。
これを読むと、昨年の日本茶Awardのように、知識の有無も不明な消費者が19点の中から1票入れるようなものは、あくまで余興であり、その域を超えたような評価は決して得るべきではないというのが、一目瞭然かと思う。
各種の日本茶品評会の評価方式も、コーヒーに習って改革をしたほうが良いのかもしれない。
ただ本書およびコーヒー界にもいくつかの課題がある。
・品種の分類は今後
内容に即した上で気になるのは、コーヒー発祥の地とされ、現在最高の評価を得ているエチオピアには原種が3,000種類以上あるらしく、アフリカということもあってか、それらがほとんど分類もできないままであるのは、大きな泣き所になっているという点である。
同じく最高評価を得ているインドネシアのマンデリンの品種もよく分かっていないようである。
「トレサビリティが圧倒的に進化した」、「品種の違いを勉強せよ」というわりに、最高評価を得ている豆の品種があまりに分かっていないのである(もちろんこれは堀口氏の責任ではないが)。
もろもろ発達した日本における日本茶とは違う泣き所で、今後の課題になるだろう。
逆から見るなら、これらの品種を研究することで、将来世に出てくる豆が全く違ったものになってゆくのは確実で、期待と可能性を感じる分野である。
・高級品だけ飲むことは何を意味するか?
内容についての疑問としては、堀口氏からも大いに崇拝されているワインの評価基準では、パーカーポイント高得点のものや、あるいは著名シャトーによる高級ワインばかり飲むような人は、すでに「スノッブ」「無粋」といわれる傾向すらあるわけだが、そうした現実が踏まえられていないのは気になる。
(日本茶も品評会上位入賞茶ばかり毎日飲むのが粋とは思えない。)
本書では流通や生産者の持続性に配慮した「サスティナブル・コーヒー」などにも言及されているが、そのような視点に立脚するならば、ピラミッドの頂点にあるもの以外も正当に消費することが必要だということに気付いてしかるべきだ。だが、そのような論点は欠落していて、「高くて美味しいもの」を素直に礼賛する段階に留まっている。
点数が高いものばかり安易に並べた「スペシャルティ系」コーヒー店も増えているらしく、これが後述する「意外とおいしくない」という声が多いことにも繋がっているように思われる。
・オーガニックへの視点
また、ワインではビオワイン愛好者がその一角を占めるようになってかなり経ち、実際のとこ通常のワインとは全く異なる味わいになるが、本書におけるオーガニックコーヒーへの言及は、表面をなぞっただけに留まっている。
・焙煎や淹れ方が二の次な理由は・・・
堀口氏の立場上仕方ないのかもしれないが、世には一冊まるごと淹れ方だけを解説したような本さえあるのに比べると、本書では焙煎や淹れ方についてはかなり簡素になっており、頁の大半が産地やスペシャルティ・コーヒーの紹介あるいは正当化に割かれている。
おそらく、焙煎や淹れ方に力を割いてきたそれまでの日本のコーヒー店やその支持者から、かなり悪く言われたりもしたためにその反動もあるのだろうと想像する。
暗に日本のコーヒー店を批判するようなくだりも少なくないが、かえって余裕の無さを感じる。
堀口珈琲さんの焙煎は、豆の良さを素直に出していると思うので、その点が残念である。
もっと落ち着いて焙煎や淹れ方にもより多くの頁を割いてもよかったのではないか。
あるいは、淹れ方や焙煎に命を賭けたような店に真摯に習っても良かったのではないだろうか。
・知識と肩書きばかりで美味しくない店が増えた?
「激動」が喧伝される一方、支持者がいればア ンチもいる常で、スペシャルティ・コーヒーやCOE(Cup of Excellence)を売りにするような店には、今や能書きばかりで味が伴わない店が多くなったという意見もかなり目にする。
日本茶で「インストラクター」や「茶師○段」を前面に出したお店で好みの味のところは一つも無かった、という個人的経験と同じようなものだろうかと考えると、それは十分あり得る話だと思う。
堀口氏に絶大な影響を与えたSCAAだが、逆に、それを担うアメリカのカルト的コーヒー店主の中に、日本の喫茶店文化からの多大な影響を語る人もいる、という事実は、ちょっとした皮肉である。
本書が大変に素晴らしい著作であるのは間違いないが、現状では、コーヒー界における堀口氏の立場、すなわち、
- 焙煎や淹れ方よりも産地や豆の素性に力を入れていると世間で認識されているということ
- アメリカ留学から帰国直後の学生並に、近年のアメリカの方式に同調していること
全体を総合すると、コーヒーの世界は、アメリカが絡んでるため、特に近年、評価基準が非常に発展しており、日本茶のそれとはえらい違いであることに衝撃を受けた。
また、功罪・賛否両論あるが、COEなど、オークションで誰もが入札できる制度が出現したり、商売としては、規模でも発想でも日本茶とは全くレベルが違っているようだ。
その一方で、生産レベルでは日本茶ではほとんど無いような異物の混入や農薬検出などが頻発し、品種も不明な点が多いというのがコーヒーの現状のようである。
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